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VOL.052 |

名月や花かと見えて綿畑(松尾芭蕉)
あたり一面に広がる綿畑を月の明かりが照らし、真っ白な綿の実が顔をみせている。芭蕉が最晩年の元禄七年(一六九四)に詠んだそんな風景が日本にみられなくなって久しい。
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日本人は長い間、麻などの繊維で織られた夏用の衣類しか持たず、長い冬の寒さに耐えていた、室町時代に入ると中国や朝鮮半島から輸入された非常に貴重なものであった。戦国時代になってやっと国内で栽培が始まり、江戸時代になると寒冷地を除いた日本各地に綿作が広がった。寛永五年(一六二八)幕府が農民の着物は“布木綿たるべし”とお触れを出すと田畑に木綿を栽培する農民が急増し、米の減収を恐れた幕府が十四年後に「田方木綿作禁止令」を出すほどさかんだった。
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| 現金収入につながる商品作物だった木綿を、あたり一面真っ白に埋め尽くすほど農民は栽培に励んだのだ。ことに女性は摘み取った綿花を糸に紡ぎ、機にかけ、綿布を織るという手のこんだ作業を農作作業や子育て、家事の合間にしていた。“機も織れない者は嫁に行けない”と親から言い聞かされて育てられたのである。 |

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麻よりはるかに強くて、温かく柔らかい庶民の衣装として、木綿が普及するのは江戸の中期になってからであるが、赤や紫のように見た眼に鮮かな色には染まりにくい素材だった。だが、藍は定着しやすいので、藍染めをする納屋を育てるのだった。 |
明治になって日本をおとずれた外国人は藍色を「ジャパン・ブルー」と呼びその美しさに驚いたという。
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文様を織りによって多くの絣が考案され、型染め、絞りなどが工夫され、それらの複雑な組合せが出来るようになり、ジャパン・ブルーと称された藍も限りなく白に近い青から黒としか見えない、青まであり、その利用も蒲団の中や表に、浴衣、手ぬぐい、おむつや雑巾というようにボロボロになるまでリサイクル利用された。日本木綿は細々と生きている。 |

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