VOL.OO3

そう遠くのことでなく、人類が火星まで到達しようとするこの現代に、京都には舞妓なる女性が存在している。

暮れなずむ京の都、祇園、花見小路。お茶屋へと急ぐ舞妓の姿に、その美しさ、その可憐さに息をのんでしまう。

季節季節に約束事がある。春なら髪飾りはこう、着物はこう、帯はあれという風にである。だらりの帯にぽっくりをはいて、髪は割れしのぶ、左手で着物の褄を取り、……。

これは奇跡でさえある。そう思えてしまうのである。

何を好きこのんでこの世界に入ったのか。

日々、舞いやお囃子、茶道にお花、立居振舞までもが、厳しい稽古や努力の結果、洗練されてくるのである。


花の命は短いのである、だから日本人はその美しさに引かれるのではないだろうか、その花にも似て、舞妓の命も短く儚いのである。


二十歳に近づくと、面差しや体つき、振舞までもが、子供子供した舞妓の姿にそぐわなくなってくるのである、女としての顔がのぞくのである。

やがて衿替えという儀式から芸妓へとの道を歩むのである。
こんな女性が現代にもまだ存在しているということが奇跡なのである。

それはどうやら佐渡のトキの運命にも似ているらしい、もはや消えゆく運命でもありそうである。

そんな儚さゆえに美しいのである。

可憐なのである。

ある意味で、日本女性の持つ美しさの代表である。

理想である。

舞妓という言葉から伝わる想いは、なんともいえずたおやかで、哀しげで、底知れぬ奥深さがある。



「孝蝶」はこの妓の名である。

当時十七歳、美しさでは一番と言われていた舞妓である。

多分、そろそろ衿替えの頃であるはずである。(ああ美しい、ああかわいい、ああ、ああ、)そんな気持で撮ったのである。

何も知らぬげは化粧の顔の、その内側などは知る必要はないのである。
花は花として撮ったのである。

美しければ美しい程、哀しくなってくる。