ウクライナの首都キエフを訪ねたのは数年前の冬のこと。正月三が日明けの午前に成田を出発し、ウィーン経由でキエフ国際空港に降り立ったのは同じ日の夕刻、クリスマスの飾り付けもまだ華やかな市の中心部、革命広場を見下ろすホテルにようやく旅装を解いたのは夕食の時間をとうに過ぎたころだった。

 すでに新年を迎えて数日が過ぎているのに目の前の広場には大きなクリスマスツリーが立ち、氷点下の気温にもかかわらず大勢の人が賑やかに行き来しているのを見るのは、時計の針が逆進したかのような不思議な感覚だったが、べつに撤去し忘れたとかいうことではなくちゃんとわけがあるのだった。いわゆる東方キリスト教、つまり正教の世界では、16世紀にグレゴリオ暦が発布されてのちも、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が制定したユリウス暦が現在でも踏襲されて、宗教行事を中心に使われている。1年の日数の決め方や太陽年とのずれを調整する方法がいくぶん異なるため、ユリウス暦と日本も明治初年代に導入したグレゴリオ暦との間には現在では13日の差ができていて、正教世界ではクリスマスは年が明けた1月7日に祝われるというわけなのだ。

 キエフ訪問の主要な目的は「日本文化週間イン・キエフ」という催しに参加するためで、キエフ大学のモヒラ・アカデミーを主会場に、日本を紹介する講演会、演奏会、映画会、出版物展示などプログラムは多岐にわたった。ぼくも訪問団のメンバーとして日本の出版諸事情について、大学生たちを相手に話させてもらうという役を受け持った。今回は、そうした公式行事の合間に見た冬のキエフの風物をいくつか紹介してみようと思う。


 キエフの歴史はさほど古くさかのぼるものではなく、この地にはじめて国家というものが建設されたのは9世紀後半のノブゴロド公国が最初だ。このノブゴロド公国はロシアの原型とされており、いまでもウクライナの人たちが言う「ロシアの母なる町」「ロシア料理の元祖」などの意識は、たぶんに身びいきはあるもののこのへんから来ているのだろう。ノブゴロド公国は時を経ずしてウラジミール大公を戴いたキエフ公国へと変わり、黒海の南から西へ大版図を築いていたビザンツ帝国の影響を受け、ほどなくしてキリスト教を受け容れた。これが旧ソ連邦時代を経て現在につながるロシア正教、ウクライナ正教の流れとなっている。キエフ公国の繁栄は長くは続かず、13世紀前半にはじまったタタール・モンゴルの侵入で2世紀半もこのくびきの下に置かれる間、ロシアの政治・宗教の中心はモスクワに移ってしまう。モスクワがビザンツの滅亡を受けて「第三のローマ」を名乗るまでは主教座が置かれ、ギリシア正教の正当な後継と目されていたのはまさにこのキエフの地だったのである。


 その証左ともされるのが市の中心部、ドニエプル河左岸の丘の上に立つ聖ソフィア寺院だ。ビザンツの首都コンスタンティノープル(イスタンブール)にある聖ソフィア寺院と同じ名前で、ウラジミール大公の息子ヤロスラフ賢王によって11世紀に創建された。中世ヨーロッパの建築中、ビザンツ様式で建てられた最大のものであり、堂内に展示してある創建当時の模型を見ると、まさに本家の聖ソフィアに比肩する規模だ。度重なる戦乱と17世紀から18世紀の大改修で創建当時の面影はないが、部分的には床のモザイクやフレスコ画が残っていて、往事を偲ぶことができる。ドーム中央に描かれたマリア像はオランテの聖母と呼ばれ、ウクライナ中の信仰を集めている。


 キエフのもうひとつの大きな見所は、聖ソフィア寺院よりもさらにドニエプル河畔寄りの広大な敷地に広がるペチェールスカヤ大修道院だ。ペチェールとは洞窟という意味で、そのまま日本語にすれば洞窟大修道院ということになるが、それはこの修道院の地下に墓が作られ、代々の修道士たちのミイラが棺に納められて祀られているからだ。墓の入口で20センチほどの細い1本の蝋燭を灯してもらい地下墓地をめぐる。そのわずかな明かりに、信仰に生きて亡くなった修道士たちのミイラが入った棺が浮かび上がるというわけだ。中には蓋が開いている棺もあって、肖像が頭上に掲げられ着衣の間から皮膚が覗けるものもある。もちろん撮影禁止なので写真でお見せすることはできないのは言うまでもない。修道院内はいくつもの教会や寺院、博物館が建ち並び、のんびり見て回るには2、3日必要だろう。


 このペチェールスカヤ大修道院と先の聖ソフィア寺院は、あわせて「キエフ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ=ペチェールスカヤ大修道院」として1990年に世界遺産に登録されている。
 さらに見ておきたいものとしては、やはりヤロスラフ賢王のころの遺物で、当時の市の入口とされた黄金の門。本家のコンスタンティノープルにも置かれたものだ。建築当時、門上に聖母告知教会が載せられ、さらに屋根が黄金で葺かれていたのでこの名が残る。その後のタタール・モンゴルなどとの戦乱により原形をとどめぬほど破壊されたが、いまは再建されて観光客を集めている。いま見える外観は中の再建された門を保護するための建物らしいが、残念ながらシーズン外でオープンしておらず見ることはかなわなかった。


 このあとぼくたちは同じウクライナ、クリミア半島のシンフェロポリに飛び、ドイツ軍とソ連軍の激戦地セヴァストポリから保養地ヤルタを回り、チャーチル、ルーズヴェルト、スターリンが第二次大戦の事後処理を画策したヤルタ会談が開かれたリヴァーディア宮殿などを訪れたが、この旅の後半については稿を改めたい。



文・写真撮影 門井菊二
1954年埼玉県生まれ。出版社において雑誌・書籍の編集職を経て、現在フリーランスで文学、歴史、芸術、ほかノンフィクション関連分野の書籍編集に携わる。
山岳、渓流、里山、海外辺境などの分野では写真およびビデオ撮影を継続中。
また主にユーラシア各地の民族楽器を蒐集、演奏し、最近はアイルランド伝統音楽の演奏に取り組んでいる。